水対策 → 菌を体に入れろ
- Chihiro Yamamoto
- 2020年7月28日
- 読了時間: 6分
私は職業柄、良くアマゾン河に行く。アマゾン河に慣れてくるとだんだん横着になってきて、良く忘れ物をする。忘れ物は大抵「飲料水」だ。
大体普段慣れている地域に行く時は飲料水は重いので持っていかない。
しかしながら、未知の地域に出る時は、その地域の水が体に合わない事もあるので「飲料水」は持って言った方がいい。しかしそれを忘れてしまう。その期間が1ヵ月にもなるとどうしても川の水を飲まないと死んでしまう。それでしょうがないので川の水を飲むことになるのだが、同じアマゾンでも地域が変われば「味」も微妙に変わってくるので、今では、色んな地域の「水」を飲んでみるのはちょっと私の楽しみにさえなっている。
○アマゾン河の水の飲み方(真似しないように)
しかしながら、最初の頃はアマゾン河の水を飲む事に物凄く抵抗があった。
こんな茶色の濁った水を飲んだら危ないのではないか?病気になってしまうのでは?しかしながら水を忘れてしまった今状況は予断を許さない。
「のどが乾いている」「水を飲みたい」「飲みたい」ちょっとコップですくってみるが、その安物のミルクコーヒーみたいな色を見ると気が萎えてしまう。
我慢は限界まで来ている。ガブ飲みする勇気は到底ない。限界に来ると人間は自分勝手な理論を勝手に作ってしまう。そうだ。飲みさえしなければ良いのだ。口の中を湿らす程度であれば安全だろう。(本当は間違いです)
と水を口の中に含んでみる。…乾いた喉には、当然、おっ、「結構美味いやないか?」とこうなる。のどが渇いているから水の味が良く解る。アマゾン河本流の茶色の水は、まったりしていて、ちょっと甘い。
これなら、ちょっとだけぐらいなら飲んでも構わないだろう。とまた勝手な理論展開を始める。で、ほんの少しだけ飲んでみる。
数時間たってもお腹が痛くならないようであれば、「なんや、いけるやないか」
とまた勝手な解釈。これを続ければですね。腹の中にその水にいる菌を貯め込む事が出来る。体はその菌に慣れてくるから、少々飲んだ所で体に異変は起こらないようになってくる。
どんどん慣れてくると、さらに横着になる私は、生ぬるいアマゾン河の水より
水は冷えていた方が美味い事に気がつく。そうだ。汲み置きして日陰においておけば水は冷たくなる。アマゾン河の茶色の水は、4時間もおいておけば
泥がコップの底に溜まり、上澄みの水はかなり透明度を増してくる。
人満載の市営プールの濁り具合ぐらいまでなる。市営プールで間違って水飲んでしなう事なんざ、良くある事で、あれで大丈夫なのだから。この誰も泳いでいないアマゾンの水もきっと大丈夫さ。と言う解釈で、コップをそろりと持ち上げ、その沈殿泥が撒きあがらないように。心静かに上澄み水をたしなむ。
「ウム。美味い」アマゾン河の上澄み水は泥なしではちょっと酸っぱい。
○河が変われば味も変わる
ネグロ河の水は黒いが透明でPH4-5の酸性の水だ。で当然酸っぱいかな?
と思うのだがそうでもなく「実はあっさり味でちょっと甘口」しかしながらネグロ河川辺に住んでいる住民は長年酸性の水を飲んでいるので歯が溶けている。
基本的に透明な水ほど味は堅く、濁りが入ればまろやかになる。アマゾン水系の水は基本的に大抵甘口。このように色々なアマゾンの支流で水を飲んで、その川の細菌を体にコレクションしていく事で、大抵の場所の水に対応できる体になってくる。
○抗菌対策と魚
日本では抗菌商品などが多く菌をつかないようにガードしているが本当の抗菌対策とは菌や虫を体に蓄えそれに守ってもらう事なのだ。
魚もそうですね。(多分)。ワイルドの魚は年を取るごとに色んな虫を抱えている確立が高くなる。それを無菌の水槽で飼育すると死んでしまう。
だから水槽内にも、色んなバクテリアそれは善玉でも悪玉でも必要な訳なのですね。重要なのはそのバランス。水かえを人力サイホン方式でしている人は何度か間違って水槽の水を飲んだ事があるでしょう。水が酸っぱければ、環境がアマゾン河と少し離れているので 適してないかも? さて話がそれてしまったが、実は色々な菌を体に蓄えれば蓄えるほど、菌に対する 抵抗力は着くわけで、対応力も増し、飲料水を運ぶ手間も省け、そして経済的にも
お得になるという話だが それが本当に良いのか悪いのかは実際の所よくわからないので
鵜呑みにせず、参考程度に流してほしい。
一度何かの菌に侵されて、その菌が体の中に潜んでいる人の事をキャリアーと言い、 そして私は色々な菌のキャリアーでもあるわけだが どんな状況にいる人も多かれ少なかれ、人生では色々なものを背負って生きているわけだ。よって責任であれ、家族であれ背負っているあなたもキャリアーという事ができる。 という事なので、心配せずに、少々の菌のキャリアーになるのは 大した事ではないと思っている。まだ死んでないしね。
どうせいつかは死ぬのだ → 何で死ぬのかそれが問題だ。病気、交通事故、過労死
人間は未来に起こる出来事を、予測はできても確実に知ることは出来ない。
ただ一つだけ未来に確定で起こる事を知っている。それは「人間はいつか死ぬ」という 未来の確定事項だ。私も、貴方も、そして君も未来に確実に死ぬ。
そうこれは皆が普段意識していないだけで確定事項である。
そしてそれがいつやって来るかを知らないのである。 人が死ぬには色々なパターンがある。
病気、事故、過労死、殺人、老衰、溺死
人間はどの様な要因で死ぬのか?それが問題だ。
人にもよるが、出来れば交通事故とか、病気に掛かって死にたくはない 誰か他の人間に殺されるのも出来れば避けたい。
これは私だけかもしれないが、出来れば遊んでいる最中にポックリ逝きたい。
例えば、ピラニアに食われるとか、ワニに食べられちゃったなんて言うのは
本望である。 これは分類的には事故死かもしれないが、予期せぬ交通事故などの事故死
ではない。自分勝手にカテゴリーを作っちゃうと「自己死」である。
己で、その確率があるのを知っていながら、もちろんその危険性は
排除ししつつも、それが起こった時にはそれを受け入れられる自己がいる。
という感じかな?と思っている。山の事故が感じ的には似ているね。
好きな事やって死ぬんだから見ようによっては幸せかも という事は幸せに死ぬ方法なのかもしれない。
ただそれを望んではやっていないので、出来れば楽しいことは何回もやってみたいし そういう中で起こる事につての覚悟があれば良いなーっと思うぐらいの話である。 他の死に方よりは幸せかなと。
何が言いたいのかというと、現代の多くの人間と言う者は、世の中に
不必要な物ばっかりを山のように必死で作り出して自己満足している
哀れな生物に見える時がある。という事で、本当にそんなもん生きて行く上で必要不可欠か?とちょっと引いた立場でみてみたら世の中の80%ぐらいの商品は 必要不可欠ではないと思える。毎年新製品出す必要があるかと問えば、企業にとって 維持成長をする為には不可欠かもしれないが、生きて行くには必要でないものが 多すぎないか?という事である。それを持つことが幸せになる事にはどう考えても 思えないようなものを必死に作っている人間って何がしたいのか?
そのどうでも良いようなものを必死で作り続けて、病気になって 来月死にますと宣告される。その時に本当にやりたかった事が出来なかった後悔はないのであろうか?宣告されてからやっても楽しくないだろうし
であるならば、死ぬ前にああ、あれもやっておけば良かったな、これもやっておけばよかったなと後悔しないように、やりたい事は本当は全てやっておいた方が良いというのが
私の考えである。それで死んでも自己死だしな。

#アマゾン #水対策 #水の飲み方




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